広島とヒロシマ
2010.08.05(Thu)
今日は、ちょっと猫ブログとは、離れてしまいます・・・。
私の思いですが、聞いてくだされば 嬉しいです。
明日は、8月6日です。
ぶれぶれだけどぷりちーふうちゃん
この土地に産まれて・・・広島は、この土地の地名ですが、ヒロシマと言う場合
平和都市ヒロシマです。
8月6日は、65年前 人類が初めて 原子爆弾を使ってしまった日。広島市に投下された原爆の原爆記念日。
毎年、今でも 8月6日 午前8時15分、黙祷します。
いつの頃からか、子供の頃からの習慣となっています。
それは、8月9日 午前11時2分の長崎の日も、同じように黙祷をしています。
今の子供達のことは分かりませんが・・・ただ。。最近は 子供の国際会議などで 広島市内の子供さんたちが
海外の子供達の平和や核に付いての会議に出席したりなど いろんなグローバルな活動があるようですが・・・。
私は、広島市内ではありませんが 同じ広島県内で育ったので
「平和学習」というものは 他県に比べて かなり盛んであったと思います。
そして、今の子供達と 決定的に違うのは 当時 私が小学生(〜高校)であった頃は 現役で先生として指導くださった先生の中に、実際に戦争に行かれた方や 原爆に合われた先生が まだかろうじて 多くいらっしゃり
そして・・・子供達に辛い体験を リアルに話してくださって伝えてくださっていたということです。
実際、小学校5.6年のときの担任は、広島市内で被爆されていました。
そして 軽症であったため 被災者の救護活動に 何ヶ月か携わり その後 自らも調子を崩し
半年 寝込んで居られたそうです。寝床で髪の毛は抜け・・・このまま死ぬのでは?との恐怖や不安が
ずっと 有ったと言われてました。
先生は、「私は恵まれていて父が あちこちから滋養のある食べ物を手に入れてくれることができたから
何とか元気になれたけど そうじゃない人も いっぱいおったんよ」と・・・話されてました。
原爆記念日と言いますが・・・記念ではないのです・・・命日なんですよね〜
身内や知人の命日が、8月6日です。
私の 両親の知人であり 私が大学の頃 大学帰りに通っていた編み物教室の先生は 子供のときですね・・・
8歳のとき 原子爆弾によって ご両親をなくされています。もちろん 爆心地の川を隔てての対岸で その方も
被爆されてて あれこれと 病気と付き合いつつ・・・それでも力強く生きてこられた方です。
と言う話が、きっと特に県内各地で いや実際は 日本各地であるんだと思います。
私の祖父も 被爆者です。原爆投下2日後、知人を探して広島市内に入って 被爆しました。
もう私の母(あ・・・自称28歳だけど・・・)は19年に生まれてましたが、母の弟・・・ 叔父は、被爆2世ということになります。幸い元気ですが〜(^^)
実は、戦後 高度成長期も過ぎた頃 生まれた私の同級生にさえ 被爆2世は たくさんいます。
友人達は バリバリに元気ですけどね〜(^^)
祖父は、多くを語りませんでしたが、壮絶な景色をみたようなことを 小さかった私に教えてくれました。
そして、キムノブ母、姑も被爆者です。
義母は、17歳のとき 現マツダ。。。東洋工業で戦争武器をつくる工場に駆りだされていて 被爆しています。
爆心地からは、山(比治山)を隔ててさらに 対岸で離れていますが・・・原爆投下直後の爆風の様子など 生々しい話を 義母から聞くと 原爆の恐ろしさで 身震いします。
残念なことは・・・この貴重な義母の話に 主人の兄のところの私よりも一回りも若い孫たちは 全く興味がないのか・・・
伝えられてなんだろうな・・・ということくらいですが。。。
ということで キムノブ兄弟は 何の影響もなく、普通に健康で元気ですが そろって被爆2世ということになります。
広島県には、被爆2世健康診断というのが 申し込みすれば無料で受けれます。
主人は 勤務先で健康診断を受けてますので 利用することはありませんが・・・。
義母は、そのときは軽症で 爆心地から次々運ばれてくる 人間とは思えない形となった被災者の
看護を 終戦の15日まで続けたそうです。
終戦になって、自宅に帰されて 動けるものは 帰っていったと話していました。
戦後 いわれのない被爆者に対する偏見も あったと聞きます。
義母や 祖父はそうゆう目には合っていませんが・・・
被爆を隠して、原爆手帳の申請をせず、被爆からくるかもしれない病気に苦しまれている方も
多かったのかもしれません。
祖父は、被爆手帳を申請し、医療費は無料でした。
でも・・・病院知らずで元気だった祖父は 被爆者が多く掛かるといわれていた癌になり 闘病1年で
私が高校生の頃 76歳で他界しました。思いのほか早いお別れでした・・・。
毎日 毎日 学校の帰りに 祖父の入院してる病院に 自転車で行きました。
亡くなるギリギリまで 意識もあり 私の誕生日のちょっと前に 亡くなりましたが
忘れずにプレゼントといって お小遣いをくれた祖父でした。(私の時代劇マニアは 祖父ゆずりです)
義母も 申請をして 原爆手帳を取得し ありがたいことに 今 医療費は無料です。(もちろん医療保険は支払っていますよ〜〜)
でも それだけの経験をしてると 思うので その制度を有効活用して しっかり長生きして欲しい
ものです。
申請も あれこれと面倒なんですよ。。。 被爆したことを 証言してくれる人が要りますので・・・。
証言してくれる人も 被爆されてるので・・・生きてらっしゃるとは 限りませんし・・・。
祖父は、原爆慰霊碑の中の名簿に名前が 他界した翌年に入れられています。もう何年も前ですが・・・
まだまだ きっと 身近なところに原爆の爪あとを 抱えてる人たちは たくさんいるのです。
平和公園での 原爆記念日の慰霊祭のテレビ中継を ご覧になったこともあると思います。
実は たくさんのボランティアが 裏で支えています。
長崎もそうだと思います。暑い季節 高齢化する参列者・・・救護テントなどもボランティアさんの
お陰です。今でも 広島の学生さんたちが 活躍してくれてるのでしょうか?
そして 平和公園の中にある 平和祈念館。 記念館ではなく 平和を祈念しています。
目を覆いたくなるような悲惨な様子も展示されています。
でも・・・こんなもんじゃないと 現実を知ってる方は いわれます。
原爆ドーム・・・昼間に間近でみても これが一瞬で、こうなったのか・・・と不気味で恐ろしいです。
あれから65年。もっと強力で破壊力のある原子爆弾が出来てるのかと 思うと絶望的な気持ちになります。
宮島も、世界遺産となり 人気の「大和」で大和ミュージアムなどもあり、観光客も増えています。
お好み焼き屋さんめぐりも お勧めですが(来られるときは お勧め店 ご紹介します〜♪)
宮島口の穴子飯(うえのの穴子飯)も お勧めなの〜〜〜♪
宮島の藤井屋で出来たての もみじ饅頭も 美味しい!!!けど・・・。
是非、平和公園にも 行って欲しいです。
ヒロシマとしての面も 見て帰って欲しいと 思っています。
ベッドの真ん中で よく寝てます・・・。狭い・・・(−−;)
こうして 猫たちと幸せに暮らせるのも、平和のお陰です。
平和ボケせず、しっかり生きていかなくては・・・と自分にも言い聞かせる為に
書かせていただきました。
私の思いですが、聞いてくだされば 嬉しいです。
明日は、8月6日です。
ぶれぶれだけどぷりちーふうちゃん
この土地に産まれて・・・広島は、この土地の地名ですが、ヒロシマと言う場合
平和都市ヒロシマです。
8月6日は、65年前 人類が初めて 原子爆弾を使ってしまった日。広島市に投下された原爆の原爆記念日。
毎年、今でも 8月6日 午前8時15分、黙祷します。
いつの頃からか、子供の頃からの習慣となっています。
それは、8月9日 午前11時2分の長崎の日も、同じように黙祷をしています。
今の子供達のことは分かりませんが・・・ただ。。最近は 子供の国際会議などで 広島市内の子供さんたちが
海外の子供達の平和や核に付いての会議に出席したりなど いろんなグローバルな活動があるようですが・・・。
私は、広島市内ではありませんが 同じ広島県内で育ったので
「平和学習」というものは 他県に比べて かなり盛んであったと思います。
そして、今の子供達と 決定的に違うのは 当時 私が小学生(〜高校)であった頃は 現役で先生として指導くださった先生の中に、実際に戦争に行かれた方や 原爆に合われた先生が まだかろうじて 多くいらっしゃり
そして・・・子供達に辛い体験を リアルに話してくださって伝えてくださっていたということです。
実際、小学校5.6年のときの担任は、広島市内で被爆されていました。
そして 軽症であったため 被災者の救護活動に 何ヶ月か携わり その後 自らも調子を崩し
半年 寝込んで居られたそうです。寝床で髪の毛は抜け・・・このまま死ぬのでは?との恐怖や不安が
ずっと 有ったと言われてました。
先生は、「私は恵まれていて父が あちこちから滋養のある食べ物を手に入れてくれることができたから
何とか元気になれたけど そうじゃない人も いっぱいおったんよ」と・・・話されてました。
原爆記念日と言いますが・・・記念ではないのです・・・命日なんですよね〜
身内や知人の命日が、8月6日です。
私の 両親の知人であり 私が大学の頃 大学帰りに通っていた編み物教室の先生は 子供のときですね・・・
8歳のとき 原子爆弾によって ご両親をなくされています。もちろん 爆心地の川を隔てての対岸で その方も
被爆されてて あれこれと 病気と付き合いつつ・・・それでも力強く生きてこられた方です。
と言う話が、きっと特に県内各地で いや実際は 日本各地であるんだと思います。
私の祖父も 被爆者です。原爆投下2日後、知人を探して広島市内に入って 被爆しました。
もう私の母(あ・・・自称28歳だけど・・・)は19年に生まれてましたが、母の弟・・・ 叔父は、被爆2世ということになります。幸い元気ですが〜(^^)
実は、戦後 高度成長期も過ぎた頃 生まれた私の同級生にさえ 被爆2世は たくさんいます。
友人達は バリバリに元気ですけどね〜(^^)
祖父は、多くを語りませんでしたが、壮絶な景色をみたようなことを 小さかった私に教えてくれました。
そして、キムノブ母、姑も被爆者です。
義母は、17歳のとき 現マツダ。。。東洋工業で戦争武器をつくる工場に駆りだされていて 被爆しています。
爆心地からは、山(比治山)を隔ててさらに 対岸で離れていますが・・・原爆投下直後の爆風の様子など 生々しい話を 義母から聞くと 原爆の恐ろしさで 身震いします。
残念なことは・・・この貴重な義母の話に 主人の兄のところの私よりも一回りも若い孫たちは 全く興味がないのか・・・
伝えられてなんだろうな・・・ということくらいですが。。。
ということで キムノブ兄弟は 何の影響もなく、普通に健康で元気ですが そろって被爆2世ということになります。
広島県には、被爆2世健康診断というのが 申し込みすれば無料で受けれます。
主人は 勤務先で健康診断を受けてますので 利用することはありませんが・・・。
義母は、そのときは軽症で 爆心地から次々運ばれてくる 人間とは思えない形となった被災者の
看護を 終戦の15日まで続けたそうです。
終戦になって、自宅に帰されて 動けるものは 帰っていったと話していました。
戦後 いわれのない被爆者に対する偏見も あったと聞きます。
義母や 祖父はそうゆう目には合っていませんが・・・
被爆を隠して、原爆手帳の申請をせず、被爆からくるかもしれない病気に苦しまれている方も
多かったのかもしれません。
祖父は、被爆手帳を申請し、医療費は無料でした。
でも・・・病院知らずで元気だった祖父は 被爆者が多く掛かるといわれていた癌になり 闘病1年で
私が高校生の頃 76歳で他界しました。思いのほか早いお別れでした・・・。
毎日 毎日 学校の帰りに 祖父の入院してる病院に 自転車で行きました。
亡くなるギリギリまで 意識もあり 私の誕生日のちょっと前に 亡くなりましたが
忘れずにプレゼントといって お小遣いをくれた祖父でした。(私の時代劇マニアは 祖父ゆずりです)
義母も 申請をして 原爆手帳を取得し ありがたいことに 今 医療費は無料です。(もちろん医療保険は支払っていますよ〜〜)
でも それだけの経験をしてると 思うので その制度を有効活用して しっかり長生きして欲しい
ものです。
申請も あれこれと面倒なんですよ。。。 被爆したことを 証言してくれる人が要りますので・・・。
証言してくれる人も 被爆されてるので・・・生きてらっしゃるとは 限りませんし・・・。
祖父は、原爆慰霊碑の中の名簿に名前が 他界した翌年に入れられています。もう何年も前ですが・・・
まだまだ きっと 身近なところに原爆の爪あとを 抱えてる人たちは たくさんいるのです。
平和公園での 原爆記念日の慰霊祭のテレビ中継を ご覧になったこともあると思います。
実は たくさんのボランティアが 裏で支えています。
長崎もそうだと思います。暑い季節 高齢化する参列者・・・救護テントなどもボランティアさんの
お陰です。今でも 広島の学生さんたちが 活躍してくれてるのでしょうか?
そして 平和公園の中にある 平和祈念館。 記念館ではなく 平和を祈念しています。
目を覆いたくなるような悲惨な様子も展示されています。
でも・・・こんなもんじゃないと 現実を知ってる方は いわれます。
原爆ドーム・・・昼間に間近でみても これが一瞬で、こうなったのか・・・と不気味で恐ろしいです。
あれから65年。もっと強力で破壊力のある原子爆弾が出来てるのかと 思うと絶望的な気持ちになります。
宮島も、世界遺産となり 人気の「大和」で大和ミュージアムなどもあり、観光客も増えています。
お好み焼き屋さんめぐりも お勧めですが(来られるときは お勧め店 ご紹介します〜♪)
宮島口の穴子飯(うえのの穴子飯)も お勧めなの〜〜〜♪
宮島の藤井屋で出来たての もみじ饅頭も 美味しい!!!けど・・・。
是非、平和公園にも 行って欲しいです。
ヒロシマとしての面も 見て帰って欲しいと 思っています。
ベッドの真ん中で よく寝てます・・・。狭い・・・(−−;)
こうして 猫たちと幸せに暮らせるのも、平和のお陰です。
平和ボケせず、しっかり生きていかなくては・・・と自分にも言い聞かせる為に
書かせていただきました。