2月14日、早朝6時25分。 人影もまばらなこの時間に、アパートの階段にやや速い足音が響く。 最後の一段を軽くジャンプしてのぼり終え、 それとほぼ同時にミサキは息をついた。 白く残った自身の息を払いのけるようにして軽く頭を左右に振り、小さく呟く。 「・・・何で私、ちょっとでも急いでたんだろ・・・。  先に向こうが起きてるなんて、どー考えてもありえないのに」 そう口に出しながらも、 歩き出す足元は、やはり少し急いでいた。 「ただでさえ寝坊の常習犯なんだもん、  今だって気持ちよーく爆睡中なのよ絶対」 そして立ち止まって90度向きを変え、目の前のドアをキッと睨み付けて。 「なのに何で、私こんなに早くココに着いてんのよ・・・!」 その部屋の住人は、ミサキの元担任で現在の恋人であるDTO。 彼の寝坊癖は相当なもので、幾度となく待ち合わせの時間をすっぽかし、 ミサキはその度に電話口で怒りを吐き出すのだった。 そして例に漏れず、今回もどうやらDTOはまだ寝ているらしく、 何度携帯に電話しても反応は一切返ってこない。 ミサキはどれほど聴いたか分からないコール音を切り、 諦めたようにバッグから鍵を取り出した。 「・・・分かってるんだったら、最初からこうすればいいのにね・・・」 自分に呆れながら、鍵を開けて部屋に入った。 少し進むといびきが聞こえてきた。 あいかわらず乱雑な部屋の中、枕元のすぐ横にしゃがみこんでみても、 DTOは無防備に眠り続けている。 「・・・はぁーーー・・・」 ミサキはしばらくDTOの寝顔を眺めていたが、 盛大にため息をつき、おもむろに立ち上がった。 「バカみたい、私」 そう呟くと、勢いをつけてベッドの上に座り込んだ。 もちろんDTOごと。 「ぐふぉぇえっ!!?」 2月14日、午前6時37分。 突然腹部へ加わった強烈な衝撃で、 DTOは寝ぼける暇もないまま苦痛に悶えていた。 声にならない声を漏らしながらも、現状を把握しようと何とか顔を上げたDTOの目に映ったのは、 腕を組み、不機嫌そうな顔で自身を見下ろすミサキの姿だった。 「・・・・・・おまっ・・・何してくれてんだよいきなり・・・」 「起きないんだもん、起こしたのよ」 もはや呻き声に近いDTOの言葉にも、 全く悪びれることなくミサキは答える。 「起こした、って・・・乱暴すぎやしねぇか・・・?  ってか、何で今ここにミサキが」 「何で!?何でって言った!?」 一つの単語に過剰に反応したミサキを見て、DTOは一瞬たじろぐ。 それを気にも留めず、ミサキは深く息を吸った。 そして、 「やっぱり忘れてる!元から期待してなかったけど!!  明らかに真面目に聞いてなかったもんね!  あのね、今日何月何日?2月14日のバレンタインよ?  当日にチョコあげたいけど、ちょうど撮影が入っちゃって  それがどう頑張っても15日までかかるから、  朝のうちに届けに行くから待っててねって私言ったのに、  来てみたらのうのうと寝てたから起こしたのよ!!」 雪崩のような勢いで、一気に「問い」に答えた。 「・・・思い出したわよね?」 「・・・あぁ、もちろん」 嘘はついていない。 しかし、そもそも否定などできるはずもなかった。 「なぁミサキ、でもさー」 「何?」 「起こすならもーちっと優しく起こしてくれても良くねぇ?」 「・・・イラついてたの分かってて言うセリフかしら」 そう言いながらも、大分和らいだミサキの表情を確認した。 もう大して不機嫌ではないことが見て取れる。 「あー、全くだな。  ・・・で、例えばだ」 DTOはいたずらっぽく笑みを浮かべ、 自分の口元を人差し指でトントンと叩いてみせた。 「これとかな」 「・・・・・・!!」 瞬間、DTOの額に鈍い痛みが走り、 直後に、先ほどまで腹部にかかっていた重みは消えた。 「こういう事してる場合じゃないのよ!  早く準備してよ!時間ないんだからね!!」 DTOが再び顔を上げると、部屋を出ようとするミサキの背中があった。 きっと顔は赤くなっているのだろう。 そう考えると、自然と口元が緩んだ。 「本気にすんなって、冗談だっつの!  っつーかいい加減慣れろよなー、初々しすぎるぞ!」 「バカっ!!」 「うははははマジで照れてるしな!!」 「もー・・・!」 2月14日、午前6時41分。 コーヒーの香りと、焼きたてのオムレツの匂いが交じり合って鼻に届く。 「美味しそう・・・」 飲み終わったコーヒーカップを両手に包んだまま、 DTOの口に運ばれるオムレツを見つめ、ミサキは呟く。 「まーな、簡単だけど」 「伊達に一人暮らし歴長くないのね」 「・・・褒めてんのか、それは」 そして間もなく、 かちゃり、と食器が重ねられる音。 それを待ち構えていたかのように、ミサキはバッグから一つの箱を取り出した。 蓋が開けられると、DTOから感嘆の声が漏れる。 「おぉ!」 「今年はちょっと頑張って、チョコレートケーキを作ってみましたっ!  初挑戦だけどとりあえず、お一つどうぞvv」 DTOは一切れに手を伸ばし、「いただきます」と言って一口。 「・・・どう!?」 「ちっと甘すぎ」 ミサキの期待に満ちた視線の前で、 DTOはきっぱりと本音の感想を言ってのけた。 「・・・えー・・・一言目くらいは美味しいよーとか言わない?」 「お世辞は言いたくねぇんだよ」 「うわ、お世辞って言うしこの人ー!」 「じゃー自分でも食ってみろよ、抗議はそれからだぜ」 「・・・分かった」 そして一口食べてみると。 「あ・・・そうかも・・・。  砂糖入れすぎちゃったのかなー・・・」 「ん、でもコーヒーと一緒だったらちょうど良いかもな。  スポンジ自体は悪くないし。  初めての割には上出来だと思うぞ」 「マジで?良かったー!」 とたんにミサキの顔から不安そうな表情が吹き飛ぶ。 「サンキューな」 「どういたしましてvv  ・・・でもさ、オサム先生」 「ん」 ミサキの笑顔が、皮肉を含んだものに変わった。 「先生なのに女一人の褒め方もなってないのねー。  ただ下げて上げれば良いとでもと思ってるのー?」 「・・・うるせーよ」 2月14日、午前7時3分。 「さてと、じゃー学校行くかな」 学校の始業時間は午前8時で、DTOの自宅から学校までは15分弱を要する。 このペースだと、大分余裕を持って学校に着くことになる。 「お、しばらく見ないうちに成長したわね!?」 高校生の頃、DTOの遅刻をたびたび目撃していたミサキは、 その言葉にわざとらしくツッコミを入れた。 「・・・お前な・・・今の時期は忙しいんだぞ?  そうでなくても、平日に寝過ごすのは減ってんだからな」 「遅刻ゼロにできるように頑張りましょうねー。  ね、学校以外も」 「・・・ハイハイ」 適当に相槌を打ちながら、 DTOはジャケットを羽織り、リュックを背負う。 「ほら、そろそろ行くぞ」 「はーい」 「・・・大体45分位か・・・」 ミサキは携帯電話を折りたたんで呟く。 まだ外は寒く、吐き出す息が白く残った。 「何が?」 「今一緒にいられた時間」 「・・・ふーん」 かちゃり、と鍵がかけられる音。 「ふーん、って・・・ずいぶん軽く流すのね」 先に歩き出したDTOの後を追いながら、 ほんの少し詰まらなさそうに口に出した。 「もっと一緒にいたかったなー、なんて思って」 「・・・へぇ、嬉しいこと言ってくれるじゃねーのよ」 そう言って、階段に差し掛かるあたりでDTOは突然振り向いた。 「え」 少し視線を落として歩いていたミサキは慌てて顔を上げたが、 その視界は不意にさえぎられた。 熱がじんわりと唇に伝わってくる。 「・・・いきなり何ー・・・?」 やっと確認できたDTOの表情は、満面の笑顔だった。 「一緒にいたいとか可愛すぎること言うからだろ」 とたんに赤くなるミサキの前で、 DTOは笑顔のままでさらに続ける。 「そういうこと言われて嬉しくねぇわけないんだけどさ、  まぁ今はしょうがねぇよ。どっちも仕事だし。  だったら、仕事終わったあとにまた来れば良いさ。な」 「・・・そうだね」 「今日は楽しかったぜ。じゃ、またな」 今度は額に軽く口付けて、DTOは階段を下り始める。 数段降りた所で一旦立ち止まり、 「今のはホワイトデーの一部前払いってことでよろしくな」 と言い残して、また階段を駆け下りていった。 「ちゃんと物でも返しなさいよ!?」 ミサキの必死な反撃も、 口の動きだけでの「分かってるよ」でかわされただけだった。 2月14日、午前7時9分。 「・・・ちゃっかりしすぎてるわ・・・」 ゆっくり階段を下りながら、独り言を呟いてみる。 「人の気配がなければ良いっていう問題でもないのに!  社会人としてどうなのよ、って感じ」 未だ火照りが残る頬を手であおぐ。 「美味しいところは結局向こうが持ってくのよね・・・。  ホントタチ悪いんだから」 最後の一段。 ふぅ、と小さくため息をつく。 うっすらと白く残った跡は、風に流されて消えた。 「・・・次はいつ会いに行ってやりますかね」 いつもよりほんの少しだけ、 心地良い甘さの風が吹き抜ける日でした。