『好き』  その言葉を、人は一生のうちに何度使うだろう。  人は、その言葉にどれほどの意味を込めて使うだろう。  例えば、ある食べ物が『好き』。  それはきっと、誰とでも交わす会話の中で出てくる言葉。  初対面の相手と、世間話にしたり。  仲のいい友人と、好きなお菓子について語り合ったり。  或いは、恋人の好きな食べ物を尋ねる場面で。  例えば、『好き』な場所。  それはきっと、誰でも話題にすること。  家族の団欒で、話に上ったり。  学校の帰り、寄り道しながら話したり。  或いは、夫婦が新居を決める相談の最中にも。  そして例えば、『好き』な人。  それはきっと、誰もが誰かの顔を浮かべるもの。  おしゃまな子どもが。  思春期の少年少女が。  新婚の大人たちが。  長年連れ添った夫婦が。  きっと死に逝く間際にさえ。  人は『好き』な誰かの顔を思い浮かべる。  何かを『好き』であること。  何処かが『好き』であること。  誰かを『好き』であること。  それはどれも、喜びに満ちた『好き』という言葉。 『好き』だからこそ、喜びがある。 『好き』だからこそ、生きている意味がある。  何一つ『好き』なものがない人生は、きっと色褪せたものだろう。  だからその言葉を、人は喜びを乗せて口にする。  けれど。  それが許されない『好き』だとしたら?  ただ『好き』であることが許されないとしたら。  その気持ちを伝えることが罪だとしたら。  この『好き』の気持ちを抱く自分が大の大人で。  この『好き』の気持ちを向ける相手が十三歳の少女だったなら。  果たして、この『好き』は、喜びとなりうるのだろうか?    やよいに全力で恋してみた 第一幕『好き』  高槻やよい。  俺がプロデュースする、765プロの人気アイドル。  いっぱいの元気を、周りの誰にも分け隔てなく分け与えることができる、純粋な子。  彼女が765プロに入社し、アイドルを始めたのは、彼女の家の事情に拠る。  大家族であるところに父親の仕事に不幸が続き、高槻家は苦しい生活を余儀なくされていたという。  幼いながらも長女であり、責任感も人一倍強いやよいは、少しでも家族を助けようと自分にでもできる仕事───アイドルになる道を選び取った。  その心意気に感心した社長は、アイドルとしてだけではなく765プロのアルバイトとしても採用し───それは雑用の名を借りた、少しでも給金に色を付けるための理由としてだったが───やよいをフォローすることにした。  そして彼女のプロデューサーとして割り当てられたのが、幾らかのプロデュース経験を経て次なるアイドルの育成に臨もうとしていた、俺だった。  最初の出会い、そしてミーティングを行った時点で、やよいのプロデュース方針は固まっていた。つまり、『彼女のありのまま』売り出すことに決めたのである。  芸能界で生き抜くための技術、アイドルとしての技能はなくとも、彼女にはアイドルとして必要な性質───見るものを元気にする、そうした天性の才能を持っていた。  技術は磨ける。しかし、性質までは容易く変えられない。  水瀬伊織や如月千早は元来の性質と、アイドルとして要求される外面の調整に苦労していたが、やよいにはそれが必要ない。  みんなに元気を振りまくこと。それがアイドルの本質であると気付いてからのやよいは、急速に成長していった。  俺はその結果に十分満足していた。やよいもまた、自らが与えた力が声援となって返ってくることにより、螺旋を描くように高みへと上り詰めていった。  俺たちは万事上手く行っていた。良いプロデューサーとアイドルの関係のはずだった。  そんな関係に、俺が満足できなくなったのは、ほんの些細なきっかけ。  ある日、雑誌の取材を受けた後の会話。  記者の側もやよいに好意的で、また何度か取材してもらっていることもあり、その仕事は何の問題もなく終了した。  記者が帰り、「私、変なこと言ったりしませんでしたか?」と尋ねるやよいに、完璧だったよと笑いかける。 「えへへ、今日の記者さんたち、すごく優しかったです! いつもああいう風だと嬉しいです」 「みんなやよいのことが好きなんだよ」 「好き、ですか? みんな、私のことどういう感じで見てるんでしょう?」 「そうだなあ……妹みたいな、感じじゃないかな」  一寸考えて答えると、やよいは「なるほどー」と頷いている。  厳密に言えば、やはりやよいは『アイドルとして』好かれているのだろう。  それは妹とは違う───他の何とも代用の利かない存在だと思う 「プロデューサーは?」 「ん?」 「プロデューサーも、私のこと妹みたいって思いますか?」 「それは……」  何気ないやよいの質問に、俺は一寸ではなく、完全に言葉に詰まった。  俺とやよいの関係。  それが何かと訊かれれば───プロデューサーと、アイドルの関係。  その関係に、満足していた。  けれど、やよいの瞳が訴えていた。  言葉に詰まった俺を見つめて、そわそわと落ち着きなくしているのは─── 「……そうだよ」 「本当ですかっ?」  ぎこちなく答えた俺に対し、やよいは満面の笑みを浮かべる。  嘘吐き。  やよいを傷付けないために呑み込んだ言葉。  やよいの表情から先回りして出てきた言葉。  本当のことを言わなかった罪悪感。  本当のことを言えなかった罪悪感。  その場しのぎの一つの嘘。  その嘘は二人の関係を守りたくて吐いたものなのに。  その嘘は、二人の関係を壊してしまう嘘だった。  それでも、時間は戻らない。戻せない。  進んでしまった関係は、戻らない。  何より、残酷なことは。  新しい関係を望んだのが、やよいだということだった。  元々、プロデューサーという職業はドライな立場を強いられる。  アイドルと世間の需要を繋ぐために客観的視点が必要である以上、自分自身がアイドルに心酔することがあってはならない。  それはつまり、アイドルとプロデューサーという関係には越えてはならない一線があることに他ならない。  一線を越えてしまえば、それはもうアイドルとプロデューサーではいられないと、俺は思っている。  公私の分別、と言えば簡単なことだが、それを徹底することは容易くはない。  真摯にアイドルとして活動を続ける彼女たちの姿は、生きている人間の営みそのものだ。  泣き、笑い、怒り、悲しみ、そうした様々な表情を、俺は目にしてきた。  同情したこともある。共感したこともある。時には、反発したこともある。  それでも、俺は自分がプロデューサーであることに徹した。  彼女らに寄り添うのは、私的な理由ではないと、そう言い聞かせて。  冷たいのではなく、乾いた関係。  近付き過ぎないからこそ、支えられる。  距離が近過ぎれば、共倒れになってしまう。  自分は支え導いていく立場だから。  俺にとって、この距離は絶対に必要なものだった。  俺が、間違っていたのだと思う。  間違いではなく、勘違いと言うべきかもしれない。  やよいをありのままに売り出すと決めた瞬間から、こうなってしまうことは必然だったはずだから。  やよいが───ありのままのやよいが、そんな距離感を受け入れるはずがない。  ただのアイドルとプロデューサーの関係、仕事上の関係だけで済むはずがない。  公私のどちらを取っても、やよいはやよいなのだから。  妹のような。  冷めた見方をすれば、それは家に帰れば常に長女として振舞わなければならないことに対する、裏返しの欲求なのだろう。  たくさんの弟や妹がいる中、両親の気持ちを一身に向けられる時間などないだろう。むしろ、手の回らない父母に代わりよく弟たちの面倒を看ていると聞いていたし、実際にそうした場面を目にしたこともある。  だから、彼女は飢えている。  自分だけに目を向けてくれる存在に。  だから───彼女は望んでいる。  自分を特別に扱ってくれる、誰かを。  たまたま、それが俺だっただけ。  いや、それすらも、彼女の勘違い。  互いの勘違いによる、すれ違い。  俺はやよいにアイドルでいてほしくて。  やよいは俺に、兄でいてほしかった。  残酷な勘違い。  残酷なすれ違い。  何も知らずに彼女は望み───  全て承知の上で、俺はその一線を踏み越えた。  その日からは、戸惑いばかりが続いた。  明らかに変わってしまった関係。  仕事中のやよいはそれまでと変わりなかったが、俺と話をするときはすっかり甘えてくるようになった。  向き合うのではなく寄り添いあって。  目を合わせるのではなく視線を絡めて。  手に触れるのではなく手を繋いで。  アイドルとプロデューサーではなく───兄妹の関係。  社長たちは一層仲良くなったと喜んでいたが、俺自身はどうしたらいいのかすっかり分からなくなっていた。  距離の取り方が分からない。  やよいとの距離が、分からない。  やよいに望まれるまま、兄のように振舞うほどに、自分が分からなくなる。  俺はやよいをプロデュースできているのか。  このままのやり方で、通用するのか。  分からない。  俺の前でしか見せない<やよい>がいる。  ありのままだったはずの、彼女に表裏ができてしまったようで。  俺は戸惑う。  そんな関係の───心地良さに。  近過ぎる距離。  客観的視点など、持ち得ない距離。  俺はただ、真正面からやよいと向き合う。  今になって、本当にただ個人として、やよいと向き合う。  やよいとする仕事が楽しくなった。  やよいと過ごす時間が楽しくなった。  やよいとの会話が楽しくなった。  嘘から始まった関係。  嘘から始まった兄と妹。  そんな嘘の関係の中で、俺は自分に問う。  俺は、本当はやよいのことをどう見ているのだろう?  問うことすら禁じた疑問。  アイドルとプロデューサーという、冷然とした事実以上を求めなかったゆえに、禁じた疑問。  だけど俺はもう耐えられなかった。  自分に問いかける。  俺は、やよいのことをどう思っている?  応えは、迷いなく返ってきた。  俺は、やよいのことが『好き』なんだと。  俺とやよいの関係。  始まってしまった、関係。 「やよい」 「はいっ、何ですか?」  ある日、訪れた唯二人の時間。  考えることを捨てて、俺は口にしてみる。 「やよい、好きだ」  応えは、迷いなく返ってきた。 「私も、好きです……お、お兄ちゃんっ」  顔を赤くして、やよいはそう言った。  ちくりと胸を刺す痛み。  俺とやよいの関係。  始まってしまった、関係。  その関係を、俺がどう感じているか───  感じた痛みだけが、それを物語っていた。