『恋』とは、狂気のこと。    やよいに全力で恋してみた 第三幕『恋』  一人暮らしの男の家に上がり込むというのがどういうことか、一定の年頃になればすぐに理解できることだろう。  しかし、やよいはそうした身の危険を覚えるには───少なくとも実際的に身の危険を感じ取るには幼すぎたし、それ以上に純粋すぎた。  自分の信じた相手が自分を傷付けるはずはないと、意識するまでもなく認識してしまっている。  それが彼女の美徳であり、その純粋さは彼女にとって危険でこそあれ責められる点ではない。  その純粋さに、つけ込んでいる。  責められるべきでない彼女の美徳に、俺はつけ込んだ。  自分を信じてくれるやよいの気持ちを、利用した。  責められるべき背徳。  裁かれるべき悪徳。  もう、どうでもよかった。  そんなことは、もうどうでもよくなっていた。 「わ〜……広いですね」  夕飯の食材を二人で買いに行き、俺の住むマンションの部屋に戻った。  俺の部屋を見て、やよいは開口一番そう言った。  しかし、それは感心しているというよりは何か気にしている風だった。 「……こんなに広いのに、一人じゃ寂しくないですか?」 「そうだな、寂しい」  それは、本心からの言葉。  ただ、部屋の広い狭いの話ではない。  ここには、やよいがいてくれないから、寂しい。 「……うん、今日は私が元気付けてあげますっ」  俺の本音を見透かしたわけではないだろうが、やよいが張り切りながらエプロンを付ける。  料理には自信があるから、と言って、俺のために夕飯を作ってくれるらしい。  買ってきた食材を取り出し、キッチンに並べて───はたと動きが止まる。 「あの……これって、どう使うんですか?」  ヒーター式のコンロは、初めて見るらしい。  苦笑しながら、使い方を教える。  その後も横で手伝いながら、結局二人で料理を作った。 「あのっ、味、どうですか?」 「うん、美味しい」  やよいは、少なくとも年齢から考えれば随分と料理に手馴れていた。  帰りの遅い両親に代わって夕飯を作ることも多かったのだろう。  特別なご馳走が出てきたわけではない。だが、その一品一品が、俺を元気付けようとしてくれている味付けなのが分かる。  自分で食べるためではなく、誰かのために作る料理。  やよいの心遣いが、じわりと伝わってくる。  同時に───この期に及んで、僅かに気持ちが揺れる。  やよいは、本当にただ、俺を励まそうとしてくれているのに。  俺は───何をしようとしているんだ? 「あの……」  やよいが、不安そうに俺を見つめ返す。  気が付けば、俺はじっとやよいの顔を見つめていた。 「やっぱり、美味しくないですか……?」  問いには答えない。応えられる余裕はない。  代わりに自分自身で問う。  引き返すなら、これが最後のチャンスじゃないか───?  引き返す、いや、押し留まるならというべきだろうか。  今ならまだ、二人の関係をこのまま続けていくことができる。  ただ俺が耐えれば。  苦しみにだけ耐えれば、彼女と今のまま─── 「お兄ちゃん……?」  違う───!  かっと火が点く。  俺は───兄じゃない───!  それがきっかけだった。  きっかけはまたやよいにあるんだと……最後に最低な言い訳をして。 「ん……っ!?」  前触れなく唇を重ねた。  驚きに目を見開くやよいに構わず、そのまま口内を舌で蹂躙する。 「あ、ん……んん……!」  やよいの舌が、俺の舌を押し返す。  反射的な反応であろうそれに、俺は舌を絡めて応じる。 「は……はぁ……っ」  一分ほどそうしてから、ようやくやよいを解放する。  顔が上気しているのは、ただ恥ずかしさからのものだろう。  頓着せず、ベッドのあるほうへと押し倒した。 「…………」  やよいは何も言わない。  ただ、目で訴えている。 『どうしてこんなことをするの?』  瞳に非難の色はない。  ただ困惑と、俺の行為が理解できない様子だけが伺えた。  キスをされた、というのはやよいにも分かるだろう。  しかし、今のがやよいの知るキスだったかどうかは、分からない。  ディープキスなどされるのは初めてだろうし、全く知らなかったかもしれない。  でも知っていて、その上で俺の行為が信じられないだけかもしれなかった。  俺は何も説明しない。  代わりに、胸へと手を伸ばす。 「あっ……」  上気している顔を更に赤くし、身をよじる。  だが、それだけ。  それ以上の抵抗はない。  僅かな膨らみを俺の手が往復するたび、身体が震える。  それでも抵抗はない。  服に手をかけて、捲り上げる。  抵抗は、なかった。  もうそれ以上試す気にはならなかった。  やよいの上に、覆いかぶさる。  そうして、俺はやよいを奪った。  暗い海に、溺れる夢。  必死にもがいて、空気を求める。  海面に顔を出した、と思えばそこにはまた海が続いていた。  何も変わらない、と嘆き、力尽きた俺は深く深く沈んでいく。  こんなことをしても、結末は変わらない。  真暗い部屋で、目が覚める。  夢の続きと思い息を荒げるが、当たり前のように肺は酸素で満たされた。  夢見の混乱が落ち着き、ここが俺の部屋のベッドの上だということを思い出す。  身体が重かった。それ以上に、頭が重い。  気だるさに唸りつつ、隣を見やる。  服を脱いだままのやよいが、眠っていた。  寝顔は別に苦しく歪んでもいなければ、穏やかなわけでもなかった。  無表情。  そこから、何も読み取ることはできなかった。  三度、やよいを抱いた。  抵抗は、全くされなかった。  俺の手が裸身を撫で回しても。  耳元で愛を囁いても。  初めてを散らした瞬間ですら、苦痛に顔を歪めたものの、俺を拒否することは何もしなかった。  だが───  気だるさを抑え、ベッドから這い出る。  のろのろとシャワールームに向かう。  蛇口を捻り、頭から勢いよくシャワーを浴びる。  ただシャワーの飛沫を浴びて、思い出す。  やよいは何も抵抗しなかった。  だが───抵抗しないだけだった。  俺の手が裸身を撫で回しても。  耳元で愛を囁いても。  初めてを散らした瞬間も───彼女はただ、耐えていた。  嗚咽が漏れる。  受け入れてくれなかった。  ただやよいは俺の行為に耐えるだけで、俺を受け入れてはくれなかった。  こんなことがしたかったんじゃない。  こんなことがしたくて、彼女を抱いたんじゃない。  ただ与えられるものが足りなくて。  求めただけだったのに。  俺はただ、やよいの気持ちを踏みにじって、奪っただけだった。  人を『好き』になったことなんてなかった。  人を『愛』したことなんてなかった。  だから、俺はみんながそれを得られるようになったらいいなと思っていた。  みんなに『好き』な人ができますように。  みんなが『愛』に満たされますように。  芸能界で働こうと決めたのは、それだけの理由だった。  アイドルを育てるという仕事は、それにぴったりだと思った。  けれど、今更気付く。  それはただの、代償行為だったのだと。  俺は誰かを『好き』になりたかった。  誰かを『愛』したかった。  空虚な自分を満たすために、みんなのためと偽って、思い込んできた。  ただ俺は満たされたかったのだ。  冷めた見方しかできない自分のために、アイドルを育ててきた。  それでも満足だった。  多くのファンも、アイドルたちも満たされていくのを見て。  俺は、満足していた。  満足したつもりになっていた。  いつしか俺は自分の気持ちを封じて、仕事に打ち込んでいった。  やよいは、アイドルである必要がなかった。  他の誰とも違って、彼女の目的はアイドルを続ける必要のないものだった。  アイドルとしての適性があっても、アイドルとしての生き方を楽しんでいるにしても。  それでもやよいにとって、アイドルであることは仕事としてのものだった。  だからやよいには、アイドルを続けていく理由が必要だった。  それは、俺の傍にいたいという、それだけの理由でも、十分だった。  誰かの気持ちを一身に受けたいという、その願いにおいて俺とやよいは通じ合っていた。  俺たちが、ただのアイドルとプロデューサーの関係でいられないのは当たり前だった。  お互いに、それ以上の関係を望んでいたのだから。  惹かれ合う理由は、必然的に存在していた。  当たり前のように、俺たちは互いを求めていた。  それなのに。  俺たちは、すれ違った。  俺は間違えていたのだ。  誰かを『愛』することと、誰かに『恋』することは違うということを。  やよいは確かに『愛』を俺に与えてくれていた。  それなのに俺が満たされなかったのは───俺がやよいに、『恋』していたから。  足りなかったのだ、『愛』だけでは。  俺は彼女の全てを、手に入れたかった。  気付いたのは、やよいを奪った後。  俺はもう何も見えなくなっていた。  許しを請いたかった。  また今までのように、兄と妹の関係に戻してしまいたかった。  けれど、何もかも手遅れだった。  俺は、やよいの『愛』を、否定してしまったのだ。  シャワーを浴びながら俺は咽び泣いた。  何もかも無様で仕方なかった。  消えてしまいとすら思った。  それでも現実は変わらない。  無理矢理に身体を動かして、シャワールームを出る。  極力やよいのことを避けて、ベッドに潜り込む。  眠りは、すぐにやってきた。  次に目覚めたとき、隣にやよいの姿はなかった。