「その段差」(お題:誤解)

    
 一段が高い階段を上りきり一歩踏み出したとき、認識できないくらいの小さな段差につま先が引っかかり、反対側の足で踏ん張ろうとしたがバランスを崩した。私は今、そのまま後ろ向きに階段を転がり落ちようとしていた。はっきりと目に見える段差なら転ばないのだが、こういう認識しにくい段差は転びやすい。そして、致命的な転び方になってしまいがちだ。かすかに宙に浮く感覚をゆっくりと感じながら、私はさっき別れたばかりの彼のことを思い出していた。原因はこの段差のようにわずかなものだった。しかし私はそこで派手に転んでしまったのだ。
 付き合いだして1年。何回か大喧嘩をしたし、険悪になったこともあった。しかし仲直りをするたびに私たちは以前よりも深い絆を感じるようになっていった。大きい何かを乗り越えると絆が生まれる。大して長くはない彼との時間で、私はまさにそれを実感してきた。そんなものも、わずかな段差につまづいただけでなくなってしまうのだろうか。
 
「どうして連絡をくれなかったんだ?」
 彼は感情を抑えながら冷静に言った。しかし声がわずかに震えているのがわかった。喧嘩のときの彼はいつもそうだった。
「話の流れで、途切れがなくて、タイミングを逃しちゃったの」
 少し強気に私は言う。そうすると彼は萎縮するのだ。いつもなら。
「は? なんだよその言い方! 何?!
 私は驚いた。萎縮することもなく、語調を荒げて彼は言葉をたたき出したのだ。
kjs;ふぁjdjljふぁk!!」
 なんと言ったのかよく覚えていない。
dkhふぁhfp;ひあぉj!!!」
 なんと言い返したのかよく覚えていない。ただ去ってゆく彼の後姿を振り返ったとき、いつもとは違う覚悟がそこに見えた気がした。別れってこういうものだっけ、と、妙に冷静に終わりだと感じていた。
 ああ、私は小さな段差だと考えていた。確かに、きっかけは小さなことだった。しかしその小さな段差でつまずくということは、その裏にしっかりと原因が隠れているのだ。彼の強い語調。覚悟を決めたように振り返らなかった後姿。きっと今回の件はきっかけなだけで、もっと大きなものが二人の関係に隠れていたんだろう。私はそんなことに気付かず、小さな段差に誤解を重ねて、大きく転んでしまったんだ。
 
 宙に浮いた私は、ふいに後ろから抱えられた。そこで転ぶのを知っていたかのような絶妙さで力強く支えられた。両肩に触れたのはよく覚えのある優しい感覚だった。
「大丈夫? 危なかったぁ。お前はすぐ何もないところで転ぶから」
 一気に涙が溢れ出してきた。
 彼はそんな私をいつまでも抱いてくれた。