『メトロノームの彼女』

 

 駅に向かって一直線の道。南北の通りを南に、彼女は、ひたすらに歩いていた。俺は、その後方十メートルほど離れてついていった。彼女は俺の存在を知らないだろう。世に「ストーカー」という言葉があるけれど、俺は違う。これは常套手段だ。彼女がどこに住んでいるのか、好きだから気になるのだ。誰だって好きな人のことをもっと知りたいと思うだろう? 知りたいから、バイト上がりの彼女の後ろをつけてみることにした。別に何をするわけでもない。俺はストーカーではない。彼女の家にしつこく電話を掛けたりなんてしない。まあ、電話番号は知らないけれど、知っていても掛けないと思う。たぶん。

 駅までおよそ一キロ。夜の九時過ぎ。人通りはボチボチだ。多くもなく、全くないわけでもない。まるで飾り気のない街灯が、機械的に通りを照らしている。小さな商店街通りで、ほとんどはシャッターを下ろしている。彼女はそんな往来には目もくれず、横も後ろも振り返らず、まっすぐに前を向いて、ひたすらに歩いていた。きっと、しっかりと自分の意志をもった、強いコなのだろう。

 

 キキーッ! と大きなブレーキ音の叫びがこだました。俺の八メートルほど先、彼女のほんの少し後ろ。脇から出てきた外車(ライトを点け忘れていた)に驚いた、通りを走っていた国産車が、急ブレーキを踏んだ。程よく静かな夜の商店街の風景の中、人々の空気は一瞬にして張りつめ、全ての人がそちらに振り向いた。いや、現場に一番近かった彼女を除いて。そう、彼女は全く気にせず、やはりひたすらに歩いていた。しっかりと、前を向いたまま。交通事故には至らなかったため、何事もなかったように国産車は再び走り出し、振り向いた人々も自分たちの世界に戻っていった。その仕草はまるで、エサをくれないとわかったときの飼い犬のようだった。俺は俺で、彼女との間の外車の前を越え、再び後をつける。俺も飼い犬だ。

 

 コツン、コツン……。彼女のヒールが地面に弾む。コツン、コツン……。その音に合わせて俺もつぶやく。そんな小気味の良い音を立てていることを、彼女はきっと知らないだろう。メトロノームよりも正確に、一定のリズムで通りに響く。同時に俺の頭に響く。コツン、コツン、コツン、コツン・……。つぶやきながら、彼女の少し先に、『赤』を光らす歩行者信号機が見えた。これほど人通りが少なくても、律儀に、一定の間隔で切り替わる赤と青。今このときに、赤である必要性は全くない。この時間にこの側道から車が出てくることなんて滅多にないのだ。彼女はそれを知ってか知らずか、とにかく何の気兼ねをする素振りも見せず、信号を無視した。左右の安全確認もせず、まっすぐと前を向いて、ただひたすらに歩いていた。きっと車が通ったら轢かれてしまう。いや、彼女は轢かれないだろう。車も避けて通るとはこのことだと言わんばかりに、颯爽としているのだ。俺は青になるかならないかくらいのとき、一応「右左右」の確認をして、彼女の後を変わらずつけていく。

 

 ガシャーン! 彼女の歩く歩道の進行方向で、大学生風の男二人(すなわち同世代だ)が掴み合いをしている。その際ごみ箱を倒したのだ。雰囲気からして、酒が入っているようだ。周りにいた友人らしき男が止めようと間に入る。彼女はそれをみているか見ていないか分からないが、確実に前方、すなわち彼らの方向へと歩いている。大学生風の三人は、もつれながら車道へはみ出す。ちょうどそのタイミングで、彼女はその横を通り抜けた。避けもせず、まったく首を横に向けることもせず、歩みを緩めも速めもせずに。きっちりと前を向いたまま、ひたすらに。一体彼女の視線の先には、何が見えているのだろう? 俺が大学生風の三人の横を通り過ぎるとき、そのうちの一人が歩道にふらついた。ギリギリで大きなリュックサックをかわした。間に入った男が「すみません」と謝る声がした。別に気にはしない。それよりも、彼女が歩んでいるその先には、一体何があるのだろう? かすかに吹く風が、きれいな栗色の彼女の髪をなびかせていた。その風をたどるように、そっと後をつけた。

 

 クゥーン……。痩せこけた犬がふらふらとしている。しきりに鼻を鳴らし、通り行く人の顔を覗き込むように見上げ、目で必死に訴えていた。とても淋しそうだ。人間だけじゃない。犬だってなんとか生きていこうとしている。生きとし生けるもの、皆その重さを背負っているのだ。うまく立ち回れる奴がいれば、不器用な奴もいる。お金持ちに飼われて裕福な猫もいれば、当てもなくさまよい続けている犬もいる。しかし、どんなものでさえも、命の価値は平等なはずだ。彼女も、俺も、この犬も。彼女がそんなことを考えていたかどうかはわからない。いや、そんなこと考えてもいなかっただろう。実にあっさりと、その犬を追い越した。犬はかすかに首を上げ、彼女を見上げた。百パーセント無駄な動作だった。彼女は相変わらずわき目も振らず、一糸違わず前方を向いたまま、犬の存在を無視した。気づいてすらいなかったかもしれない。とにかくひたすらに、歩いていた。彼女が冷たいわけではない。俺も、この世のほとんどの人間と同じように、かわいそうだと思うだけで何もせずに犬を追い越した。犬が首を持ち上げるのがかすかに分かったが、かまうことはできない。彼女の後をつけていかなければいけないのだ。

 

 ゲラゲラと笑っている男二人組が、駅近くのコンビニエンスストアの前にいる。一人が彼女の方に目を向けた。もう一人がそれに呼応するかのように、彼女の方(その先に俺がいる)を振り返る。二人とも、太めのズボン(一人はつなぎで、一人は六ポケットだ)を短く履いている。ズボンの種類以外は似たり寄ったりで、特徴はない。極ありきたりの二人だった。個性というべきものが感じられない。まあ、そんなことどうでもいい。六ポケットの方が彼女に近づいた。もちろん彼女はお構いなしに歩いている。六ポケットが彼女に声を掛けた。「かわいいね。どこいくの? 時間ある?」ああ、ナンパか。何もこんな人通りも少なく、ましてや若い女のコなんてさらに少ない場所でしなくてもいいのに。というか、余計なことをしないでくれ。コツン、コツコツン、コツン……。多少の心配はしたけれど、予想通り彼女は見向きもせず、口も利かず、進路に立ち入った六ポケットを避けるためにわずかに横に逸れ、すぐに軌道を修正し、駅の灯りへとひたすらに歩いていった。六ポケットは無駄だと見切りをつけたのか、しつこくは声を掛けなかった。それが正解。彼女の歩みを少し横に逸らしただけでも大手柄だと思う。「ははは、ダセェ。」俺が通り過ぎるとき、つなぎの方が六ポケットにそう言っていた。彼女のヒール音を一瞬でも狂わせた彼らを心の中で罵りつつ、駅に近づいていく彼女の後をつけた。

 

 駅前といっても何もない。こっちの口は、どちらかというとメインではないのだ。さすがにさっきまでより人は多いが、邪魔にはならない。駅名の書いてある看板の下に、黄色に黒で『東口』と書かれている。薄暗く、読める程度に鈍く光っている案内看板だ。蛍光灯が切れそうなのか、無秩序にチカチカと点滅していた。俺と彼女の直線延長上には自動販売機がまぶしい。駅の改札へと続く階段から十メートルほど東になる。その前で、割に品の良い服装をした男がポケットから財布を取り出そうとしていた。さらに少し東には十数台ほどの自転車が停めてある。駐輪禁止場所だけど、そこに停めている人はそんなことは気にしないのだろう。五十代後半といったくらいの婦人が、自分の自転車を動かそうとしている。マナーがなっていないとは思うけれど、俺には関係のないことだ。ところで、彼女は…………彼女は改札へと続く階段の方ではなく、明らかに自動販売機の方向へと進んでいる。嫌な予感がする。彼女は歩みを緩めることなく、ひたすらに自動販売機へと向かっていった。俺は少し歩みを緩める。彼女はしっかりと前を向いて歩いている。彼女の前にあるもの、それは自動販売機ではなく、自動販売機のボタンを押しかけている、品の良い服装をしたスリムな感じの男だ。

ガラガラガッシャーン! と大きな音が響き渡る。さっきの婦人が自転車をドミノ倒ししてしまったのだろう。男がその音にはっと左を向いた瞬間、彼女は男に抱きついた。『東口』の看板の蛍光灯がチカチカとしている。が、それよりもよほど明るい自動販売機の灯りの前で、男の驚いた表情がすっと穏やかになり、笑顔が映えた。彼女は彼を見ていた。彼も彼女を見ている。どこからどうみても親密な雰囲気だった。そう、彼女は、駅前で待っている彼のことしか見ていなかったのだ。何があろうと関係なく、ただひたすらに彼のもとに。二人はさりげなくフレンチにキスをして、体をこちらへ向けた。俺はもはや彼女も彼も見ることができず、自動販売機に向かってひたすらに歩いていくしかなかった。腕を組んでいるようだ。彼らとすれ違うとき、彼女の話す言葉が聞こえた。いつものバイト先とは明らかに違う、俺の聞いたことがない心を許した甘い声だった。「コンビニ寄ってく?」

 

状況くらいわかる。雰囲気だって読める。俺はストーカーじゃない。彼女の名前すら知らない。仕方のないことなのだ。……。彼女の恋人が忘れていった缶コーヒーを取り出し、ジャケットのポケットに突っ込む。別に追いかけて渡すつもりもない。左を向くと、婦人はまだ、倒れた自転車に四苦八苦していた。大変そうだ。……手伝おう。仕方のないことなのだ。コツン、コツン……。ポケットの缶コーヒーが温かい。仕方のないコツン、コツン……。あの犬は食べ物にありつけただろうか? 場所さえわかれば、彼女のようにひたすらまっすぐに歩くことが出来るだろうに。コツン、コツン……。倒れた自転車を直しながら、そんなことを考えていた。