『恋に至る病』  乙音

 

あ、と思った。彼女の髪の毛に触れたい、と。わずかに色を抜いたやわらかそうなストレート。すねまで隠すのだろうブーツのジップを上げようと身を掲げた彼女。その後ろに現れた間接照明が、さらりとたれた髪とともに映画のワンシーンのように目に焼きついた。そして僕は彼女への恋に落ちた。髪に触れたいと思ったその瞬間に。

ただひとつ断っておくが、僕がいつもそうして恋に落ちるわけではない。別の部分に(それは例えば、優しさとかスタイルとかちょっとしたタイミングとか、一般的にあるそういったものだ)惹かれて恋をすることだってある。だが、きっかけはどうであれ、髪に触れたい、と思わない女の子への気持ちはどうしても長続きしないのだ。性格のよさとか心の相性とか、理性や感性の一部を飛び越えて。

そういうわけで、約2年間をその恋に費やすことになる。仲のよい友人の恋人の友達。偶然(と僕がいうと彼女は「運命」と訂正する)の出会いだった。その日、取引先の主催しているイベントに夕方から参加することになった僕は、直帰の予定で会場へむかっていた。そこへ上司から着信があり、イベントに参加しなくてもよいことになった。と同時に、たまには早く帰れと、そのまま帰宅するのを許された。……2月。少しずつ長くなりつつある昼の時間の終わり。空に雲はなく、あまりにもかすかな夕焼けに反した眩しすぎる金陽が僕の背中を押していて、普段あまり立ち寄らない商店街へと影が矢印をつくっているようにみえた。家に帰るには早すぎる。時計は5時半を示していた。そのまま影矢印の向く商店街を歩いてみることにした。本屋へ寄り、ジーンズショップや進出してきたシューズのディスカウントショップを吟味した後、ふと立ち寄ったカウンターバーからの帰り道、件(くだん)の友人にあった。偶然にかまけて近くの居酒屋へ二人で立ち寄ると、これまた偶然、友人の恋人がいた。その恋人の隣に、彼女はいた。そこまではあるいは、本当にただの偶然だったかもしれない。しかしその帰り、居酒屋を出るときのこと。彼女はそれを意に介さないけど、僕は運命と言う言葉をここで使いたい。ブーツを履こうとする彼女の、さらりと垂れた髪に触れたいと、えもいわれぬ衝動を感じたのだ。その瞬間に僕は「恋に至る病」に陥ったのだった。

それから2年が経ち、病は僕に消えない傷を残し、去っていった。「失」という言葉が、病名の前についていたのだった。失ったのは2年越しの恋だけではない。その月日。その間に仲良くなった女性との可能性。彼女との偶然と運命……。結局、彼女の髪に触れることはできなかったのだった。

 それでも僕はまた病にかかるだろう。恋に至る病に。それがいつか、いつの日かきっと、愛に至るものだと信じて。