「さかなのめがね」(お題:さかな・憧れ)

 

 釣り上げた魚。かかってしまった異物から逃れるため、あるいは水のあるほうへと何とかたどり着こうと、もがき動き暴れるその姿とはうらはらの、あの目。僕ら人間が本来そこにあるべきだと当たり前に思っているものがそこにはない。表情。恐怖を感じる。対人関係において僕らは少なからず相手の様子をうかがっている。さかなの目はそれを許さない。そこに何も映さない。
 
 都心の裏路地にある古ぼけた雑貨屋で見つけた。冬の高くなり始めた空から注ぐ低い陽光に照らされているはずの店内は薄暗く、手に取れるくらいに思えるほどの埃が漂っていた。どうしてかはわからない。僕は狭い店の棚に埋もれるように置いてあった「さかなのめがね」を購入することを決めた。
「本当に買うのかね?」
 店主らしき老人は言った。表情は見えない。さかなのめがねではない店主の眼鏡に、差し込むはずのない光が反射していて意図を読みかねた。しかし、突発的に訪れた感情に逆らうことはできず購入する意志を伝えた。
「このめがねは真実のみを映すフィルタだ。頼りすぎず、捉われすぎず、だ。知らなくてもいいことはたくさんある。このことはしっかり覚えておくんだな」
 説明書も何もなかったが、老人のいうとおりこのめがねが本当に「真実のみを映す」ものだとしたら、僕はとんでもないものを手にしたことになる。どういう形で映し出されるのかはわからないが、気取って偉そうに吹いてるとしか思えない先輩、合コン行く度に女の子をゲットしているらしい友人、昔はなぁ……話ばかりの上司など、わかるはずもないし、別にわかったとしても興味がないそういうことまでわかってしまうのだろうか。
 店を出ると自然に笑いがこみ上げてきた。ばかばかしい。たかだかウン千円のこの眼鏡にそんな効果があるはずもない。店主にうまいこと担がれただけだ。子供だましの売り文句で、きっと赤と青の3D眼鏡程度のものに違いない。子供の憧れを煽るのと同じだ。
 それにそもそも僕は「真実」がどうであるかに興味なんてないのだ。他人が何を語り、何を訴え、何を見せ付けてきたところで、僕は僕の信じたものしか信じない。現実的にどうやって人生が進行していくかが大事なのであって、今とこれからが揚々していればそれでいいのだ。先輩が、友人が、上司が、恋人が、何を思われようとして何を隠そうとして僕に働きかけてきても、あんまり関係ないのだ。真実は現実に影響を与えない。
 このあと恋人と待ち合わせをしている。久しぶりに連絡が取れ、会うのは一ヶ月ぶりになる。それでも、その会っている時間が大切なのだ。そこに幸せがあれば。
 
 彼は恋人を待ち続ける長い間、ポケットの中のさかなのめがねを強く握り締めていた。