きっかけは、些細なことだった。
「あら、靴紐がほどけてるわよ」
通りかかった上級生が、下級生の靴紐がほどけていることを指摘しただけでなく、かがんで直してあげた。突然の出来事に下級生は面食らっている。
これでよし、と上級生は顔を上げる。下級生はまだ固まっている。
「……親切を受けたら礼ぐらい言わないと、印象悪いわよ」
「あ、ありがとう……ございます……」
「よしよし。あなた、名前は?」
「東堂、京子、です」
「あら奇遇ね。わたしもキョウコなのよ。西藤 享子。よろしくね」
微笑顔で差し出された右手を、京子はおずおずととった。
訓練所も寮も広く、互いに教わることも異なる。あの時以降、二人が出会うことはなかった。
ある夜、部屋をノックした相手に、支給品の寝間着姿でストレッチをしていた享子は、どうぞ、と気軽に応えた。あの……、と入室してきたのは、前に会った下級生である。彼女も同じ寝間着姿だ。
「あら、どうしたの?」
「講習で、解らないことがあって、その……」
そのまま下を向いて、口ごもってしまった。ま、入りなさいよ、と享子が彼女を手招くと、京子は素早く先輩の前に座る。畳の上に、直だ。
「あらあら、座布団を用意する間も惜しいのね。でも、どんな時にも余裕は必要よ」
そう言うと、享子は来客用の座布団を押入れから出した。京子は慌てて立ち上がり、傍に座布団が敷かれると、すぐにその上に正座で座る。
台所に立ってお茶の用意を始めた享子は、そのまま後ろにいる京子に、同輩とはうまくいってないみたいね、と言った。急な質問に彼女は戸惑い、どう返答したらよいか困り、ただ黙った。
「普通、そういうことは親しい同輩に相談するものだからね。でもあなた、口下手みたいだし。でも、黙っているだけでは、相手に自分の意思を伝えることはできないわよ。口下手なら口下手なりに、少ない言葉で相手に自分の意思が伝わるように、何か工夫をしないとね」
ぬるま湯になったところで火を止めると享子はそれを急須に注ぐ。そして急須と湯飲みを二つ乗せた盆を畳の上に置いた。
「あの……写真……」
「ああ、あれね」
後輩に訊かれて、箪笥の上にある写真立てを見た。享子と、彼女より少し背が低い男性とのツーショットが収められている。
「恋人じゃないわよ? 弟。今は専門学校で技術訓練を受けているの。モノをいじるのが好きだから、いずれは製造か開発に回されるかもね」
あ、そろそろね、と言って、享子は急須の中身を湯飲みに入れた。この香りは玄米茶だ。片方を京子の前に置き、もう片方を優雅に啜ると言った。
「さて、どんな用件だったっけ?」
「あ、その、えと、あ……」
しどろもどろになりながらも京子は、今自分が抱えている問題を話した。それに享子は懇切丁寧に答える。京子にとってその時間は、ここにきてから初めて、楽しい、と思える時間だった。
だが、楽しい時間ほどすぐに過ぎ去る。気がついた時には日付が変わっていた。
部屋を出るとき、京子は、先輩の顔をまっすぐに見て言った。
「また、来てもいいですか?」
それは、先程までの彼女ではできなかった、強い意思表示だった。
享子は、にこり、と微笑んで答えた。
「いつでも」