『九十九逢瀬』

僕らの生きる現代は複雑すぎて、求めずとも与えられるものが多すぎて、シンプルに自分の大切なものが分からなくなってきてしまっている。

 

アヤコの母親から手渡されたノートは単色無地、実にシンプルなものだった。いかにもアヤコらしいと思った。このノートのように、僕に対する彼女の気持ちも想いも心も、本当にシンプルだった。だったのに僕は、そんなことに気付かなかった。

ノートを持つ手から鮮やかな赤い糸が伸びていた。小指から糸をたどる。糸は少しずつ細くなり、くすんだ色へと変わっていく。その先はノートのあるページにはさまれて伸びていた。ほぼ無意識にそのページを開く。アヤコ独特の字体に胸を締め付けられる想いがあふれた。

「もしも運命の赤い糸があるとしたら、私は彼と結ばれていたい。小さな頃からずっと二人で育って、同じ桜の花の下で春を迎えて、同じ波打ち際で足を濡らして、同じ夕焼けを全身に浴びて、時折降る雪をそれぞれの手をつなげて一つにして受け止めていたい。今までのように、これからもずっと。小指からこの糸をたどれば彼の小指へとつながっている。私は何の疑いもなく彼といた。遠くないいつか、結婚をして子供を産んで、今度は子供も一緒にたくさんの四季を暮らしていく。彼もそう思っていると、ずっと思っていた。

絡まってしまった糸はもうほどくことはできない。どこをどうたぐりよせれば彼のもとにたどり着けるかわからない。大人になるにしたがって世界が広がっていって、それにしたがって糸はどんどんと絡んでいってしまった。色んな人たちが持っている糸と私たちの糸が複雑に重なり合い交差し擦り切れながら、どんどん絡んでいってしまった。どうしてもっと単純に、つないでおくことができなかったんだろう。

もういくら彼の糸に結び付けたくても結べない。彼と同じように、私の糸の端っこも、どこにあるのかさえわからなくなってしまったから。できればもう一度、私の糸が絡むことなくそのまま彼の糸につながっていたあの頃に戻りたい。」

ノートからさらに糸をたどると、そこにあるのかわからないくらい細く、もう赤であることも分からないほど色はくすみ、やがてぷつりと途切れていた。

僕は思う。アヤコはもういない。彼女の母親が僕にこのノートを預けたのは、その宿命を背負って生きていくべきなのだということだろう。そして、それでも僕はこの糸の先をいつか他の糸に結びつけて生きていくのだろう。それが他の人の糸を途切れさせることになろうとも。世界はそうして連鎖し、交差して、そして進んでいくのだから。